2013-07-10

Polisler ne hissediyorlardı? / 警察官たちは何を感じていたのか?

    Dün Lobna'nın hikayesini bloguma koyduktan sonra bir video izledim facebook üzerinde. Videonın başlığı ''Gezi polisleri konuştu; ''Rezilliğin destanı yazıldı''.
 きのう、Lobnaの物語をブログにアップした後、facebook上であるビデオを見ました。ビデオのタイトルは〈ゲズィ公園に出動した警察が語った。あれは「極悪醜行伝」。〉

    Evet, bütün Türkiye'ye yayılan Gezi Parkı protestoları boyunca hep kafamda bir soru işareti vardı; Bu insanları karşı alan polislerden neden isyan çıkmıyor? Bir insan olarak eli boş insanlar saldırmakta vicdan azabı çekmiyor mu? 
    Olay başladıktan 1 hafta sonra mıydı bir kez polislerin içini döktüğü videoyı görmüştüm ama sonra birşey bulamadım.
 そう、トルコ全土に広がったゲズィ公園抵抗運動の間じゅう、わたしの頭の中にはひとつの疑問が浮かんでいました。一般市民たに対峙する警察のなかから、どうして暴動が起きないのだろう。ひとりの人間として丸腰の人々を攻撃することに良心が痛まないのだろうか?
 事件が始まって1週間ほどした頃だったか、一度だけ警官が内心を打ち明けたビデオを見たのだけど、その後はひとつも見つけることができませんでした。

    ''Gezi polisleri konuştu; ''Rezilliğin destanı yazıldı'' videosu; http://vagus.tv/2013/07/09/gezi-polisleri-konustu-rezilligin-destani-yazildi/
 〈ゲズィ公園に出動した警察が語った。あれは「極悪醜行伝」。〉ビデオはこちら

(翻訳)
エルドアン首相「われらがトルコ警察は、まさしく一篇の武勇伝を記したのだ」

某警官「武勇伝を記す、っていうのは人を誇らしい気持ちにさせる言葉だが、実際わたしたちが(抵抗運動に対して)働いた条件を考えてみると武勇伝なんかではなく、極悪醜行伝でした。」
   「武勇伝、という言葉を考えるとき、まずわたしたち警官の対峙しているのが、わがトルコ国民であるということを知っているわけです。だからこそ“武勇伝”という表現は受け入れられるものではありません。(警察の力の行使が)自国民に対する場合、武勇伝なんてあり得ない。武勇伝というのは、(戦争時に)敵対する軍隊に対し、敵に対する戦いにおいて記されるものです。」

ニュース解説:エルドアン首相が「武勇伝を記した」と表現した警察のあいだでも(首相と)異なる考えを示す者たちがいる。彼らはゲズィ公園抵抗運動のあいだ(5月31日~6月中旬の警察の強制介入・テント撤収等が行われ、数日間タクシム広場周辺への出入りが制限された期間と思われる。ただ抵抗運動の集会は現在も継続しており、警察の介入も断続的に続いている)、18日間超過労働を強いられた警察官。自身が何者であるかを公表することは避けている。というのも警察内部における圧力を恐れているからである。しかしながら、(今回の抵抗運動が始まって以来)初めて警察内部からの明確な意思表示となった。

某警官「現在はまったくひどい/異常な状態にあります。上からは「自分のことは自分で何とかしろ」と言われて現場に残されるんです。」
   「そこで働いている警官に支給されるのはチーズ二切れと、レタスが挟まれたサンドイッチだけ。ただそれだけがずっと支給されるんです。あるいは赤インゲン豆のシチュー。そのうち賞味期限ギリギリの食品が持ち込まれるようになった。その日のうちに食べてしまえと。(どこかの会社から賞味期限が迫った食品を警察が安く購入する)そういう合意の上で持ち込まれたものでしょう。(こうなってくると)この抵抗運動への介入など、もはやどうなってもいいという気持ちです。」
   「わたしたちは現場できちんとモノを食べることもできず、きちんと眠ることもできなかった。休憩を取ることも、風呂に入ることもできなかった。何千人もの警察官が招集されていたのに、現場には2つしかトイレがないんです。トイレに入るために1時間も行列に並ぶんです。しかもこのトイレ待ちの1時間は休憩時間に計上されるんです。こんな状態では健康的に身体を休めることもできなければ、健康的に眠ることもできない。だから健康的に考えることだってできないんです。」
   「イスタンブル以外から何千人もの機動隊員がゲズィ公園の事件に関連して連れて来られましたが、皆外の通りに寝かされたんです。こうした機動隊の司令官たちだけが警察会館で寝たんです。『わたしの警官たちは自己犠牲を厭わない』『わたしの警官たちは忍耐強い』それからよく言われるのが『わたしの警官たちは皆ヒーローです』。でも、わたしたちはヒーローになんかなりたくないし、自己犠牲を支払いたくなどないのです。」
   「トルコ警察は寒がったりしない。トルコ警察は腹を空かしたりしない。どうしてですか? わたしたちだって人間ですよ。わたしたちはアニメのヒーローなんかじゃないんです。ロボットなんかじゃないんです。無神経でもなければ、感情のない人間でもありません。良心を失っているわけでもありません。ただの普通の人間です。」
   「一般的に国家公務員は週に40時間働くわけですが、わたしたちは160時間働いているんです。自己犠牲以上のものですよ、これは。わたしたちは、もうこうした(武勇伝を記した、英雄であるといった)言葉や、スピーチに騙されたくないんです。欺かれたくないんです。」

ニュース解説:上司からの命令がどのように隠されたかについても衝撃的な事実を語っている。

某警官「わたしたちが使ってるトランシーバーには会話が録音される回線があるのですが、第9回線は録音されない。機動隊のトランシーバーにも同じものがありますが、この第9回線から命令が下されるんです。そいつらを抑えろと。録音されない回線を使って命令が下るんです。どうしてか。自身の責任を逃れるためですよ。『わたしは彼に何も言ってない』、そういうために。録音もされていません。たとえばTOMA(放水弾を発する乗り物)が介入したとき、あなたに誰が命令したか。彼がしたと言っても、彼は言うわけです。『そんな命令はしていない。彼が自分で考えてやったことだ』と。つまり見放されるわけです。直属の上司が石を投げろと言えばわたしたちは投げなくてはならない。武器を使えと言えば使わなければならないんです。そのとき上司に異議を唱える権利は、わたしたちにはないんです。実際、こうしたことはありました。『石を投げろ』という命令さえもあったんです。

ニュース解説:自国民と対峙する、というのはどういう心理をもたらすものか、という質問に対して彼らは「疎外、孤立」という言葉を使った。

某警官「警察官たちは、今回の事件が始まって以来誰からも守られることはありませんでした。皆、警察をスケープゴートとして見ていましたから、すべてが警察官たちの責任になりました。『警察がこんなことをした』『警察があんなことをした』……誰も警官がどうなろうと知ったことじゃない。」
   「ゲズィ公園の抵抗運動には誰が参加しているのか。普通の人々です。警官としてそこにいる理由だって、そこに座っている人々のせいだって気になってくる。正しいことをしているとは思わないですよ。ここに管理の弱点がある。警官たちはそこに置き去りにされ、孤立する。各自それぞれ自分でなんとかしろと言われる。警官たちに対して必要なことは何もなされない(最初に語られたように食事や睡眠、休憩など人として必要不可欠なことさえも充分ではない)。そのうち自分たちがこんなハメに陥ったのは公園で抵抗運動をしているヤツらのせいだと考えるようになるんです。現場で受けている仕打ちの原因が抵抗者たちにあるように思うんです。これは正しい考えじゃないかもしれません。彼らだって法律で定められた権利を行使しているのかもしれないし、憲法違反の活動をしているのかもしれない。でも、わたしだってあそこで12時間働いた後には家に帰って休む権利があるはずです。」

……ビデオの続きでは、トルコの警察官における自殺率が非常に高いということについて語られています。2013年の初めまで、13日で1人の割合で警官の自殺がありましたが、2013年の前半でこの数字はさらに増えていると伝えています。


    Evet, polislerde insanlardır, bizimle hiçbir fark yoktur. Ama toplaşmak bazen insanı delirtiyor. Tek başınayken kendini güçsüz hisseder ama bir grup oluşturulunca aniden güçlü hisseder, tek başınayken yapmayacaklarını yapar. ''Polis'' adlı bir manto giyince herşey yapma hakkı varmış gibi hisseder, öyle polisler de vardır.
 そう、警官だって人間です。わたしたちと何ら変わりありません。けれど、集団化するってことはときに人を狂わせます。一人のときには弱いと感じていても、グループになると突然強いと感じてしまう。一人のときにはできないことをしてしまう。〈警察〉というコートを羽織ると、何でもできるという権利があるように感じてしまう。そんな警官もいるでしょう。

    Bugün yine polis tarafından saldırılan bir üniversite öğrencisi Ali İhsan Korkmaz, 19 yıllık hayatını kaybetti. 3 Haziran günü direniş yürüyüşüne katılan Ali, eli sopalı sivil polisler tarafından dövüldü. Ali'nin bu saldır sonrası hastaneye gittiği halde ''ifadeni ver öyle gel'' yanıtını aldı. Ertesi gün karakollar dolaşarak ifade veren Ali, dünkü hastaneye gittiğinde beyin kanaması yaşıyordu ve 4 Haziran'dan itibaren bilinç kapalıydı. 
きょう、また警官によって攻撃された一人の大学生アリ・イフサン・コルクマズさんが19年の生涯を閉じました。6月3日にデモ行進に参加したアリさんは、手にバットを持った私服警官によって殴られました。彼は殴られた後に病院に行ったにも関わらず「供述してから来い」と言われました。翌日警察のオフィスを巡って供述したアリさんは、前日の病院に行った時点で脳内出血であり、6月4日以降は意識不明の状態でした。

    Bu ülkenin geleceğini sahip çıkacak gençlerin hayatını mahvedip ne koruyorlar ki! 
 この国の未来を担う若者たちの人生をめちゃくちゃにして、一体何を守っているんでしょう。

2013-07-09

Lobna'nın hikayesi / ロブナの物語

    7 aydır bu blogu güncellemedim ve bu 7 ay içinde bir sürü şey oldu. En büyük olay ise Taksim Gezi Parkı Protestoları.
    2013 Taksim Gezi Parkı Protestoları; http://tr.wikipedia.org/wiki/2013_Taksim_Gezi_Parkı_protestoları
    Japonca olarak okumak için; 

 7ヶ月のあいだこのブログをアップデートしませんでした。そしてこの7ヶ月の間にいろんなことが起こりました。最も大きな出来事はタクシム・ゲズィ公園の抵抗運動です。
 2013年タクシム・ゲズィ公園抵抗運動について:http://tr.wikipedia.org/wiki/2013_Taksim_Gezi_Parkı_protestoları(トルコ語版)

    ''Parkımıza dokunma'' diyerek başlayan bu eylem, 31 Mayıs'ta inanılmaz boyuda büyüdü. Neden? Türk polisler orantısız güç kullanarak eylemciler saldırdı. Burada o saldırda yaralanan bir kızın hikayesini anlatmak istiyorum.
 「わたしたちの公園に手をつけないで(公園を奪わないで)」と始まったこの運動は、5月31日に信じられないほどの規模に拡大しました。何故か? トルコの警察が不相応な力による介入によって抵抗者たちを攻撃したからです。ここでは、あの攻撃のさなかに負傷した一人の女性の物語をご紹介したいと思います。


    Hürriyet Gazetesi 7 Temmuz 2013  ''Eskiden ablamdı, şimdi bebeğim oldu.''
    Orijinal makaleye buradan ulaşabilirsiniz.
 ヒューリイェト新聞2013年7月7日『かつてはわたしの姉でした。いまは赤ん坊になってしまった。』
 オリジナル記事は、こちら

(記事翻訳)
ゲズィ公園に端を発する武勇伝(注:トルコのエルドアン首相は今年5月末から始まった一連のプロテスト運動と警察の介入について『警察の武勇伝』という言葉を使った。著者はこれを暗に批判するため、ここで「武勇伝」という言葉を使用している)のひとつを、催涙ガス弾のカプセルを頭に受けたLobna Allamiの物語を、彼女の妹Fatinが語っている。

あの写真を忘れることは、わたしたちにとって不可能です。
それは5月31日でした。
みんなの関心を呼んだゲズィ公園抵抗運動の最初の日々……。
首相でさえ、(抵抗運動に対して)不相応な力が使われたと認めた事件の結果。
テントは焼かれ、催涙ガス弾による攻撃が行われ、その結果公園に横たわった赤いTシャツに青い短パンを着た女の子。
Lobna Allami(ロブナ・アッラミ)。
頭に催涙ガスのカプセル弾を受けて倒れ、後頭部からは血が流れていた。
わたしたちの記憶に刻まれたあの写真の後で、一体何が起きたのか。(注:彼女が血を流しながら倒れている写真はfacebookやtwitter上に流れていた)
25日間の昏睡。
2度の脳外科手術。
意識を取り戻すのか、生きながらえるのか、そんな恐怖とともに過ぎた日々……。
有り難いことにLobnaは行きている。
けれど、一方で麻痺が残り、腕を使うことができない、話せない、脳もダメージを受けている。
ふたりの姉妹の物語を聴きながら、わたしは泣いた。
あの家族が「お大事に」とさえ言われないことに、語る言葉を見つけられない。
わたしは、もっともっと泣きたい。

名前は?
Fatin Allamiです。

歳は?
32歳。

どうしていまタクシム・イルキ・ヤルドゥム病院にいるの?
5月31日、ゲズィ公園でDİSK(Türkiye Devrimci İşci Sendikaları Konfederasyonu/トルコ改革労働者組合連合)のプレス・ミーティングがあったんです。それはシット・イン抗議活動でした。抵抗運動はありませんでした。人々はただそこに座っていたんです。突然催涙ガスによる攻撃が始まりました。みんなどこかに逃げました。やっと現場が落ち着いた頃、ひとりの女の子が倒れているのが見つかりました。短パンをはいた、赤いTシャツの女の子です。頭からは血が流れていました。それが、わたしの姉Lobnaでした。25日間昏睡状態で、二度の脳外科手術を受けました。だから、いまここにいるんです。

パレスチナ人なの?
関係ありません、わたしたちはトルコ人です。父はヨルダン人、母はトルコ人です。つまりは、こういうことなんです。わたしたちの母方の祖母はエミノニュ(イスタンブル)出身のFatma Gülfidanağaです。14歳のときに父親とともにパレスチナに行きました。父親はオスマン帝国時代の知事/総督だったんです。その頃、パレスチナはオスマン帝国に含まれていました。父親は病気で亡くなり、祖母はそのままそこに住みました。その後、チェルケズ人の祖父と結婚し、子どもが生まれます。1948年には難民としてヨルダンに移民し、何年も後になって祖母は再び故郷(トルコ)に戻り、ここで亡くなりました。お墓もここにあります。ありふれたトルコ人ですよ、わたしたちは。

あなたのお母さんは?
ヨルダンで父と結婚しますが、離婚後姉とわたしを引き取り、トルコに戻りました。

いつトルコに来たの?
わたしが12歳、Lobnaが14歳のときです。

外国人として疎外感など感じられましたか?
(この質問とわたしたちに)なんの関係があるんですか。わたしたちは“外国人”ではありません。アラビア語は知っていますが夢だってトルコ語で見るんですよ。家族のあいだではトルコ語を話していました。恋人はトルコ人です。オリーブオイルを使った料理が好きです。朝はエズィネ・ペイニール(トルコで有名なチーズブランド)を食べます。タイムをふりいれたオリーブオイルにパンをつけて食べます。(今回の事件のあと)Lobnaが「観光客」だと言われました。「外国人」だと言われました。どうしてそんなふうに言われたのか分かりません。そうだとしたら頭に催涙ガスのカプセル弾を受けて当然だと言うのですか。

(トルコで)どのように暮らしをたてられたのですか?
母は学生のときアラビア語・アラビア文学とイスラーム史を専攻していました。リビア大使館で仕事を見つけたので、わたしたちはアンカラに移りました。

あなたは何を専攻したのですか?
アンカラ大学の政治学科卒業です。政治科学とパブリック・アドミニストレーションを学びました。

Lobnaは?
彼女は中東工科大学の哲学科卒業です。さらに中東工科大学でヒューマン・リソースの修士過程を修了しました。

お二人の仲はいかがでしたか?
お互いにとてもよく似た、よく口論する姉妹でした。母とLobna、そしてわたしの3人はそれぞれとても個性的で顔を合わすと言い争っているように見えたかもしれませんが、それ以上の愛情で結ばれていました。

Lobnaはどんな女性ですか?
理想家で情にもろいタイプ。旅行が好きで、乗馬をし、泳ぎ、潜り、スカイダイビングだってやる。でも、飛行機に乗るのを怖がりました。山に行けばゴミを拾い集め、海辺を掃除し、道端で怪我をしたネコを見つければ獣医に連れて行き、傷を治して食べさせてやりました。心の広い、慈悲深い人間です。お年寄りにもやさしく、子どもたちも大好きです。けれど、どこかで不正や不公平があれば必ず声を上げました。ガザでパレスチナ人に対して不正が行われればLobnaはここでハンガーストライキに入ります。チュニジアで人々が自身を焼けば、Lobnaはここで嘆き悲しみます。ヒューマン・リソースで修士を取り、数年間はその方面で働きましたが彼女には向いていませんでした。ダンスと音楽が大好きで、中東工科大学在学中はモダン・ダンスのグループに属していました。社交的で、4つの言葉を知っています。非政府組織で働いた後、ベルリンに行きました。

ベルリンでは何をしていたのですか?
イベントを運営する会社で働いていました。外国にトルコのアーティストを連れて行ったり。3ヶ月間、ベルリンにいました。ビザが切れたので、その延長のためにイスタンブルに来たんです。5月31日、あの夜アンカラに行く予定でした。母に電話して「冬物を置いて、夏物の洋服を持って行く」と言ったそうです。けれど、残念ながらアンカラには来れませんでした……。

政治に関してどれほど興味がありましたか?
どの政党にも、協会にも属していませんでした。唯一ナショナル・ジオグラフィックの購読会員でした。


二度、脳外科手術を受け、24日間昏睡状態だった。


あなたは、この事件をどのように知ったのですか?
Lobnaの前のルームメイトが電話してきたんです。「Fatin、Lobnaがゲズィ公園で怪我をした。これから手術に入る」と。最初は事の重大さが分かっていませんでした。腕や足に怪我をしたのだろう、くらいに思っていたんです。仕事を終え、イスタンブルへのチケットを手配しようとしていました。家に買えると友だちみんながそこにいて、わたしから電話を取り上げようとしました。ネット上ではLobnaのひどい写真が出回り始めていましたから、みんなわたしがfacebookにログインするのを阻止しようとしてたんです。不安で落ち着かなかったのでイスタンブルに住む従兄弟に電話しました。「どういう状態か聞いて」と言いました。電話をかけ直してきたときには、ひどく泣いていて「Lobnaの頭に催涙ガスのカプセル弾が当たって、ひどい外傷を受けて病院に運ばれたらしい。生きる可能性は20%だって」と言いました。

あなたは、どうしたんですか?
ショック状態でした。何もできずボーッとしました。突然自分の足が感じられなくなり、ブルブルと震え始めました。家にいた友だちたちはわたしを寝かせました。でも、その後に正気に戻って飛行機に乗り、イスタンブルにやってきたんです。Lobnaは集中治療室で寝ていました。

医者たちは何と?
頭に当たった(催涙ガス弾の)カートリッジによって頭蓋骨が折れ、骨が脳に刺さって晴れていたそうです。手術で脳の圧迫を取り除くため頭蓋骨の一部が切除されました。出血もあり、その血も取り除かれました。身体は機械に接続され、眠らされていました。「非常に危険な状態で、いつ、何が起こってもおかしくない」と言われ、そこから我慢に我慢を重ねて待つことが始まりました。できることは何もなく、母にもこのひどいニュースを伝えなければならなかったんです。

最初に見たとき……
頭に包帯を巻いて眠っていました。24時間経たずに頭の別の部分からも出血が始まって。実際、大変な手術はこちらの手術でした。もし発見が30分遅れていたら手遅れになっていたそうです。集中治療室の扉が開いてLobnaが出てきました。体重47キロの小さな女の子ですが、身体も頭も倍にふくれあがっていました。

どうしてそんなことに?
浮腫、水腫のせいです。身体が反応を起こしたんです。彼女の目はもともと大きいですが、脳が腫れたために目は完全に外に飛び出していました。機械につながれていたのでそれを外し、緊急手術のためにチューブをポンプのようなものにつないで手で空気が送られていました。恐ろしい音がしていました。わたしが見たのは、姉なんかではありませんでした。別人だったんです。本当に恐ろしい眺めでした。「手術をしなければなりません。非常に危険な状態で手術しなければ死んでしまいます。けれど手術中にご臨終もあり得ます」と言われました。手に一枚の紙を握らせ、その手術の責任を認めるサインをしました。運良く母を既に家に送り返していて良かった。Lobnaのあんな状態を見たら、心臓が止まっていたでしょう。

その瞬間、あなたは何を考えていましたか?
「死んだ」と思いました。「ただ時間稼ぎしているだけだ、嘘をついているんだ。彼女は死んだ」それ以外のことは考えられませんでした。あんなに辛く苦しいことは、これまでに一度もありませんでした。あの病院で横たわるLobna……。人生でただ一人わたしが頼れる人、友だち、姉……、彼女のことをどれほど好きかよく分かりました。心の痛みが身体の痛みになる、そんな時期を過ごしました。骨が軋り、心臓が痛みました。

それから?
「頭内の出血を取り除きました」と言われました。わたしたちの身体のなかで最も敏感で、最も知られていない脳の一方を警察がめちゃくちゃに破壊し、もう一方をお医者さんたちが助けようと必死になっていました。数時間後、お医者さんがまたやってきました。「何があったの?」と聞くと、「トモグラフィー(断層レントゲン)に連れて行く」と言われました。「どうして?」 瞳孔が開いて、片方の目よりも大きくなっていたそうで、それは何かと言うと脳でまた別の何かが起こっている兆候だとか。また手術をするのかと思ったら、手術はしない。水腫かもしれないし、脳血栓かもしれない。全身に刺がささるようで、話せませんでした。息もできませんでした。麻痺になったみたいに。数時間後、お医者さんたちが来て「瞳孔が元に戻った。様子を見る」と言われました。待ちました。それから24日間……。

姉さんは眠りから覚めたら昔みたいになる」などと夢想しませんでしたか?
もちろん、そう思ってました。「ハロー」って言うわ。幸せな気分に浸りながら、いっしょに家に帰るんだって。でも、お医者さんたちはいつも危険な状態だって言ってた。ところで、この病院で手術してくれたお医者さん、集中治療室の看護婦さん、準看護婦さんたちがどれほど尽力してくれたか言葉では言い表せないわ。彼らにはわたしの命をあげてもいいくらい本当に心から感謝してる。Lobnaに関する書類をあらゆるところに見せたけど、みんな同じことを言ったわ。相応しいときに、相応しい治療が行われたからこそ彼女はまだ生きているんだって。彼女みたいな患者の80%はふつう病院に運ばれるまでに亡くなり、10%は手術中、あるいは翌日に亡くなるそうです。

Lobnaが目を覚ましたとき、どういう状態になると言われましたか?
麻痺が残り得る、麻痺は一時的なものでもあり得る、理学療法を行っても感覚が元に戻らないこともある。話せないかもしれない。今後の人生を家で誰かに面倒を見てもらいながら過ごすこともあり得る。こういったすべての可能性について話されました。

現在の状態は?
脳にダメージがあります、それは確実。でも、それがどれぐらい続くのか、どれくらいが一時的なものなのかまだ分かりません。1年経過を見てみないと分からないそうです。


言語中枢にダメージを受けていて、もう話せない。


(Lobnaが)最初に意識を取り戻したとき、何がありましたか?
わたしのことが分かりませんでした。唯一分かったのは母だけ。右半身が麻痺していて、話せませんでした。25日間何も食べられなかったので10キロ痩せました。もともと47キロだったんです。背中じゅうが床ずれしていました。頭蓋骨の一部を切り取っていたので、その部分が凹んでいました。いまもその状態です。髪の毛はありません。頭いっぱいに手術の跡があります。けれど、少なくとも彼女は生き残りました。生きているから、わたしたちも幸せです。


右半身麻痺。


どうやってコミュニケーションをとっているのですか?
最初、声は出ませんでした。いまは囁くように声を出しています。ただ言語中枢にダメージを受けているので会話はできません。わたしたちは希望を捨てていません。お医者さんたちも同じ。Lobnaは、あの身体の中のどこかに潜んでいます。でも脳にダメージを受けたので、元に戻ってくるのに時間がかかっているんです。

話せないということは、彼女にとって辛いことでは?
辛くないわけがありません。最初の5日間はとても神経質でイライラしていました。いまはずっと泣いています。72時間、まったく眠らないこともあります。すべて手を使って説明しようとしています。「どうして歩けないの?」と聞きます。「わたしの頭はどうしてこんなになったの?」「どうして腕が動かないの?」「何が起こったの?」と聞きます。

説明しましたか?
もちろん。50回ほど説明しました。でも、忘れてしまうんです。それでも、一日一日良くなります。そう信じたいんです。2日前、わたしは彼女に「歯を磨こう」と言いました。そして、どうにか洗面台まで連れて行くことができましたが、そのとき彼女は鏡に映る自分を見たんです……。

何をしましたか?
ものすごく怖がりました。そしてすごく泣いた。わたしも彼女に「あなたにひと言も嘘は言わなかった。分かってるでしょ。脳が腫れて頭蓋骨の一部を切り取らなければならなかった。それがいまは凹んだの。右半身は一時的に感覚がないし、言語中枢と声帯にも問題があるけれどよくなるから」と言いました。いまは歯を磨くときに鏡で自分を見てため息をついています。毎日少しずつ良くなっています。けれど、かつてのLobnaにも二度と戻れません。

彼女をどうやって看ているのですか?
わたしは今後、長い間働くことはありません。姉さんと一緒にいます。理学療法が彼女に良い効果をもたらすと信じています。

あなた方にとっても難しい状況ですね。
彼女はわたしの姉でした。いまは赤ちゃんになりました。喜んで彼女を看ています。彼女も良くなろうと一生懸命です。いまだにとても情にもろいです。申し訳ないと思ったり。謝るんです。トイレに連れて行ったりすると面倒をかけたと考えて。

あの日、タクシムに行っていなければ……と話したりしますか?
いいえ。決して。彼女があの場所にいたことを全面的にサポートしています。Lobnaはあの場所で非合法的なことは何もしませんでした。法で定められた権利を、表現の自由を体現していただけです。

Lobnaのために、わたしたちにできることはありますか?
プラスのエネルギーを送ってください。愛情を込めて、祈ってください。いつか、ここに書かれたことをすべてLobnaは読むだろうし、感謝すると確信しています。


病院でガスマスクをつけた。
Lobnaを集中治療室前の廊下で待っているとき、ガスマスクをつけなければならないときがありました。病院の中庭にまで催涙ガス弾が打ち込まれたからです。幸運にもガスは集中治療室にまで及びませんでした、そこには特別の通気システムがあったので。けれど、わたしはひどい状態になりました。警察が病院の中庭に入ってきたと聞いたときにはとても怖くなって集中治療室のドアに張り付きました。警察が姉さんを連れて行ってしまう、と思ったんです。

Ethemのことを話して、わたしは泣き出した。
彼女が昏睡状態のとき、24日間泣き続けました。そして涙も枯れてしまった。いま、彼女のそばではしっかりしていようと泣いたりしていません。ただ一度だけ、今回のプロテストがどれほど広がったのかを説明するために「7000人を超える負傷者がいて、5人が亡くなった」のだと言いました。Ethem Sarısülükのことを話したとき泣いてしまいました。彼の家族のことを考えたんです。わたしたちも辛い時期を過ごしていますが、少なくとも姉さんは生きています。息子を失った人たちのことを考えると、どうやって毎日を過ごされているのか想像さえできません。神が彼らに忍耐と力を与えたまわんことを。


警察の武勇伝、と言った人たちは、ここに来てLobnaを見てほしい。

Lobnaが生死の淵をさまよっているとき、首相は「警察は武勇伝を記した」と言いました。(アンカラ市市長の)Melih Gökçekは、(プロテストに参加した一人が警官の放ったプラスチック弾を頭に受けて亡くなったまさしくその場所に)警察に感謝を表明する横断幕を掲げました。こうしたことを見聞きして、あなたは何を感じましたか?
最悪です。とても無慈悲な行いでした。わたしたちなんか存在しないも同然です。誰も謝らなかったし、「お大事に」とも言わなかった。Lobnaが何人だとか、何者であるかに関して嘘偽りが飛び交ったことからも分かるでしょう。(Lobnaのよう負傷する者が)外国人であれば、トルコの良心はそれほど痛まないとでも考えられたのでしょうか。外国人だったら何だって言うの? 彼女は、あの通りにいたただの子どもでした。短パンにTシャツを着て、エスパードリーユを履いた。警察と争うために出かけたテロリストでも、アナーキストでもなかった。夏をジハンギリ(イスタンブル、タクシム広場に近い街区)で過ごす、「わたしたちの公園に手を付けないで。わたしたちの生き方に干渉しないで」という声をあげた人。あそこで座っていたんです。それなのに彼女たちの前に現れて彼女を撃ったんです。信じられないほどの痛みを味わわせているんです。彼女が一生忘れることのない、とても重い記憶を残しながらも、電話をかけて「たいへんだったね、加減はどうだい?」とさえ聞かないんです。人間性ってこういうことですか? わたしたちがどう反応するか怖くて何も言えないのかしら。それともこんな目に会うのが当然の人間だと思われてるのかしら……。


生きる喜びを失ってしまうとは思わない。


「こういう運命だったんだ、仕方ない」と思ってるんですか。それとも「暴力をふるった人たちが姉さんの人生を台無しにした」と?
わたしは運命論者ではありません。降りかかった災難には耐えるしかない、とは思いません。心を強くして生きて行くしかありません。そしてLobnaにも力を与えたい。彼女も心の強い女性です。きっと克服するに違いありません。わたしを悲しませる、わたしの心を折るただひとつのこと、それはLobnaが生きる喜びを失ってしまうことです。

これほどの傷を受けて、生きる喜びを失わずにいられるものですか?
もちろんです。生きているのだから。話せないし、腕を使うこともできない。けれど、彼女にはたくさんのプラス材料がありますから、こうしたマイナス要因を補って有り余ります。自分以外の誰かのために命を賭けたハンガーストライキという恣意行動がとれる、「わたしたちの公園を潰さないで、わたしたちの生き方に干渉しないで」と言える人間が、これほどの大怪我を負ったにも関わらず生きているんですから、(Lobnaが)生きる喜びを失うとは思いません。
(翻訳終わり)

    Bu kızın hikayesini okuduktan bir gün sonra (bu makaleyi Japoncaya çevirirken) yeni feci bir haber geldi; 17 yaşındaki lise öğrencisi, polisin attığı gaz kupsülünden kafası ağır yaralandı.
 この女の子の物語を読んだ翌日(この記事を日本語に翻訳しているとき)、新たに不幸なニュースが入りました:17歳の高校生が、警察の発した催涙ガスのカプセル弾を頭に受けて重傷。

    Ne yazık ki, polis Lobna hikayesinden hiçbir şey öğrenmemiş. Özür dilememiş, ''Geçmiş olsun'' dememiş, şimdi de bir lise öğrencisinin kafasını vurdu. Ne demek bu? Bundan sonra bir olay çıkarsa hep gaz bombaları mı atacaklar? Bir insanın hayatı mahvolursa da müdahale şeklini değiştirmeyecekler mi?
 残念ながら、警察はLobnaの物語から何も学んではいなかったようです。謝りもせず、気遣う言葉もかけず、今度は高校生の頭を撃った。どうこうこと? 今後は、事件が起こったら常に催涙ガスのカプセル弾を撃つってことなんでしょうか。ひとりの人の人生が台無しになろうと、介入の仕方を変えるつもりはないってことでしょうか。

    İsteyerek de olmasa da böyle sonuçlar çıkıyor, bir durup düşünülmesi gerekmiyor mu?
 狙って撃ったわけでなくともこうした結果が出ているわけで、立ち止まって考えるべきではないでしょうか?