2010-01-26

PENGUEN dergisini görünce... / ペンギン紙を見て……

26. Ocak 2010 - 1月26日(火)

 Uzun zamandır blogumda hiçbir şey yazmadım. Bu bir ay içinde bir hayli şey oldu ve durumum de değişti, ama merak etmeyin iyiyim çok şükür... :))
 Her zaman buraya ne yazsam mı diye düşünüyorum, bazen sadece düşünup hiç yazmıyorum. Türkiye'yi, Türkleri o kadar seviyorum ki, Türkiye'nin sorunlarına odaklayarak yazmayı sevmiyorum. Eğer yazarsam Türkiye'nin kötü görüntüsünü yaratabilirim diye...
 Ama bugün beni affeder misiniz acaba... neşeli olmayanı yazmaya karar verdim.
 長い間、ブログになーんにも書きませんでした。この1ヶ月の間にたくさんのことがあり、わたしの置かれている状況も変わりました。でもご心配なく、元気です、幸いにも。
 いつも、ここに何を書こうかと考えています。ときどきは、ただ考えるだけで何も書きません。トルコが、トルコの人々がとても好きだから、トルコの問題に焦点を当てて書きたくはないのです。もし書いたら、トルコの悪いイメージを作り上げてしまいかねないと思って。
 でも、きょうは許してくださるでしょうか……楽しくはないことを書くことに決めました。

 Dün ev arkadaşım ''PENGUEN'' adlı bir mizah dergisini getirdi eve. Kapak sayfası şöyleydi...
 きのう、いっしょに住んでいる友だちが『ペンギン』というコミック紙(と言っても風刺漫画の要素もあるのだけど)を持って帰ってきました。その表紙がこれ。

 Okuyunca kapak sayfasındaki adam, Hrant Dink'i öldüren katil olduğunu anladım ama karikatürün neden o adama ''şimdiden kitabı yazmaya başlamak lazım...'' diye söylettiğini anlamadım.
 Arkadaşıma göre 1979 yılında bir gazeteci/yazar, Abdi İpekçi öldürülmuş (ölüm yıldönümü 1 Şubat yaklaşıyor). Ama onu öldüren adam, Mehmet Ali Ağca katil olmasına rağmen pek çok bilinmiş adam olmuş ve onun anılarını yazmasını bekleniyormuş... ''PENGUEN'' dergisinin kapak karikatür, bunu eleştiriyor. Hrant Dink'i öldüren adam da cezaevinde kalırken kitap falan yazarsa, bunu yayınlanırsa meşhur olacak ve sonuçta zengin olacak diye..
 読んですぐ表紙の男がフラント・ディンクを殺した暗殺者であることは分かったのですが、風刺画がなぜその男に「いまから本を書き始めなければ……」と言わせているのかが理解できませんでした。
 友だちの説明によると、1979年に新聞記者、作家であるアブディ・イペクチが殺されたそうです(亡くなったのは2月1日、もうすぐ命日)。けれど、彼を殺した男メフメット・アリ・アージャは暗殺者であるにも関わらずとても有名になり、その回想記を書くのが待たれているとか。『ペンギン』紙の表紙の風刺画は、そのことを批判しているのです。フラント・ディンクを殺した男も刑務所にいる間に本か何かを書けば、それが出版されれば有名になるし、結果的に金持ちになると。

 ... ne söyleyebilirim acaba... düşünüp duruyorum... üzlüyorum... bu duyguyu not etmek istemiştim bu yüzden yazdım bunu...
 ……なんと言ったらいいのか……考え続けています。悲しいです。この気持ちを書き残したくて、これを書きました。

 Tam aynı zamanda Vatan Gazetesinin internet sitesinde Zülfü Livaneli'nin makale de okudum. O da aynı duyguyu paylaşıyor galiba.
 
ちょうど同じとき、ワタン新聞のインターネットサイトでズルフ・リヴァネリのコラムを読みました。彼もまた同じ気持ちを抱えているようです。
 http://haber.gazetevatan.com/haberdetay.asp?Newsid=283242&Categoryid=4&wid=5
自己流翻訳:暗殺者を好む国
というのも、この国で殺人者が好かれることを、敬愛が示されることを、長い間わたしは知っている。
痛みを伴うものであっても、それが現実だ。
ある人を殺すこと。それは非常に重い罪ではない、この文化において。
それどころかその嫌悪をもよおす殺人という行為を、さまざま理由で賞賛さえする。
国家のために、名誉のために、政治観のために、サッカーチームのためになど、人を殺すことは暗殺者を昇華させる。
暗殺者に対し「トルコはあなたを誇りに思う」と喝采され、暗殺者の肩が抱かれる。
刑務所で他の罪人たちは軽蔑されるが、暗殺者に対しては重罪人と言って尊敬が示される。
「死体3体、死体5体」と言われる。
哀れな被害者は“死体”になってしまった。
日々使われる口語においてさえ、人を殺すことのために「掃除した/始末した」という言葉が使われる。
つまり、人を殺すことは、世界を掃除することなのだろう。
数年前、テレビで歌手コンテストが行なわれていた。
数週間後、うつろな目をした少年が殺人者であることが明かになった。
さて、何があったのか。
この情報が流れたあと、少年は高潔なわれらが国民の投票によって1等に選ばれたのだ。
だから、アージャ(前述の暗殺者)に対して示されるメディアの関心にわたしは驚いていない。
なかにはとても良い人たちがいるにも関わらず、トルコの大部分は残念ながらこんなふうなのだ。
力を崇拝し、弱者を砕き、女子供を引き裂き、誇り高い動物たちを虐待しながら殺し、無学で、居場所から異臭を放つ、近親相姦の多い原始的な社会。
一般市民を苦悩させる低俗な社会。
つまり、周りで「わが国民」と言いながら重きを置かない、すべての振る舞いにおいて民主主義の真意を求める大衆の本当の顔がこれなのだ。
真の諸問題に直面する勇気が持てないため、鏡を見ることができないため道徳的にわれわれは次第に退化している。
問題がただ豊かになることではなく、同時に文明化することだと理解できないのだ。
なぜなら、アタチュルク以降ただひとつの政府も「人と、その文化」という問題には力を注がなかった。

最後の例を挙げよう。
アブディ・イペクチが暗殺された日、しゃくりあげてわたしは泣いた。しかし、その後、彼の(彼自身が取締役であり、筆頭コラムニストであった)ミリイェット新聞において「アージャはハンサムか?」というアンケートを見て胸が悪くなった。そして「呪われてしまえ、こんなメディアは」と言ったのだった。
だから、もはや事の一部始終に驚いてはいない。
この国は殺人者の、ではなく、平和を望む者たちの敵なのだろう。

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