2009-02-03

Hangi kurala(tarafa) uyar? 〜どちらの法(方)に従うのか?

2009.02.03

 先日、図書館で予約していた『神の法 vs. 人の法 〜スカーフ論争から見る西欧とイスラームの断層(内藤正典/坂口正二郎(日本評論社)』を借りて読みました。

 タイトルにもなっているとおり、軸として「スカーフ論争」が取り上げられているのですが、「信教の自由の保障」と「政教分離の原則」について社会学および憲法学の両面から理解を深めることができ、また欧州各国における「政教分離」政策の違いを確認しつつ、その象徴的な問題のひとつとして「スカーフ論争」を見つめ直すことができたように思います(もちろん、すぐに結論が出るような問題ではないのですが)。

 まず、認識を新たにしたのが「信教の自由の保障」と「政教分離原則」は、つきつめると対立する可能性のある考え方だということ。

 「信教の自由の保障」というのは、思想の自由や表現の自由と同じく、国家からの個人の自由を定めています。つまり、思想や表現、信教において、国家が個人に対して何かを強制することを禁じています。
 一方、「政教分離の原則」というのは、そのまま国家と宗教を分離する原則のこと。とはいえ、日本やフランス、アメリカのように(あくまで憲法上は)宗教の特権や権力行使を認めない厳格な分離と、ドイツやイタリアのようなゆるやかな分離があり、さらに言えば政教分離を採用していないイギリスのような国でも(国教はイングランド国教)信教の自由は認められています。 ※写真は、国教を定めている国々です(Wikipediaより)
 ご覧の通り、シリアは国教を定めてはいません。「国家を社会主義、人民民主主義国家と規定しており、バアス党(アラブ社会主義復興党)を「国家を指導する政党」と定めている。(Wikipediaより)」そして「国家元首である大統領は、バアス党の提案を受け人民議会が1名を大統領候補とし、国民投票で承認するという選任方法を採っている。大統領の任期は7年で、イスラム教徒でなければならず」という場合もあるわけです、余談ですが。


 さて、では「信教の自由の保障」と「政教分離」の何が対立するのか……というと、「信教の自由」を徹底すれば国家に対して宗教への便宜を図ることを要求することもあり得ますが、政教分離を徹底すれば国家は宗教について無関心でなければなりません。たとえば「教義によって格闘技を禁じられているエホバの証人の信者にとって、体育の授業で格闘技を強いられることは"世俗の義務"と"神の義務"のいずれに従うのか、という問題になる。そこで信仰に配慮して世俗的な義務の履行を免除すれば、当該宗教を特別扱いすることになり、政教分離原則に反する可能性を生み出しうる」というのです(坂口氏の弁)。

 こうした場合、どこで線引きするのか……が問題になるのだと思います。また、どこで線引きするかは、そのときの国の状況、政治によって大きく左右されるため、そのときどきによって「信教の自由の保障」「政教分離原則」という軸が大きくブレてしまうという問題も起こり得ます。9.11以降、またロンドンでの地下鉄テロ以降、西欧におけるモスリムの置かれた状況は大きくシフトしました。そうなってくると、それ以前と以後では「信教の自由」と「政教分離」のあいだのどの地点に問題を着地させるか、というのは大きく異なってきます。これは、何もイスラームの問題だけでなく、どの国のどんな問題においても同じだと思いますが。

 また、同著では各国における宗教の捉え方、スカーフ問題をはじめとする公共の場(特に学校)における宗教を検証されていました。

 たとえば、フランスは厳格な「政教分離」政策を取っているため、公立学校において宗教の入り込む余地はありません。この国では「信教の自由」の保障よりも、「政教分離」の原則が強いと言えるでしょう(だから、公教育の場ではムスリム女学生のスカーフはもちろん、ユダヤ教のキッパといった宗教的シンボルが禁止されるのも、妥当と言えば妥当と言えるのです)。
 フランスの北にあるベルギーはと言えば、公教育でもカソリックやプロテスタント、イスラームなど、生徒たちの宗教に応じた教育が週2〜3時限ほど取り入れられているとか。とはいえ、スカーフ問題はまた別、だったりするのですが。
 さらに、その北のオランダとなると政教分離を厳格に設けているわけではなく、多元主義の国だけあって宗教色のない公立学校であっても、宗教や信条に基づいて設立されている学校であっても、全額公費によって行われているし、卒業したときに有する資格にも違いはありません。個人的には、オランダのようなカタチもありだとは思うのですが、異なる宗教の子どもたちが混じらないのも、また問題を大きくする原因になりかねないのでは、という危惧があります。信教の自由は保障され、それぞれ望む宗教教育も受けられるのですが、完全に分断されてしまっている。そのなかで、どのように異なる宗教を理解していくのでしょうか。彼らに異なる宗教を理解する機会は与えられているのかしら、とも心配してしまうのです。


 ところで、どの国においても、ことが「スカーフ論争」となると、一様に「スカーフ」=イスラムの因習=「女性の抑圧の象徴」という思考形式が多く、「信教の自由」に重きを置く論者たちのあいだでも、スカーフ=女性の抑圧の象徴というしがらみから完全に自由にはなれていない印象を受けました。

 もちろん、イスラーム女性と言ってもいろいろで、自らの意思でかぶる人もいれば、目に見えないプレッシャーを少なからず感じてかぶる人もいないとは言えません。なかには親に強制されている人もいるでしょう。でも、だからこそ、一律に「抑圧の象徴」と捕らえがちな論壇の風潮には、いささか奇妙さを覚えました。そこにはいろんなプロパガンダもあったりしたのでしょうけれど。

 トルコのスカーフ論争をチラチラと見てきましたが、こうして欧州まで見回してみると、対立する可能性が"ある"問題を議論しているのですから、もめるのは当然と言えば当然なのです。大切なのは議論を重ねて分裂してしまうことではなく、お互いに歩み寄りつつ、どこに着地点を見いだすかってことなんですよね。深めなければいけないのは分裂ではなく、相互理解。信じるものが別であれ、共存できる方法を見つけることはできると思うのです、決して簡単ではないけれど。


 なお、本著は前述の2教授だけでなく、只野雅人(一橋大学大学院法学研究科教授)、山元一(東北大学大学院法学研究科教授)、森千香子(南山大学専任講師)、見原礼子(日本学術振興会特別研究員/社会学)、大曲祐子(一橋大学大学院博士後期課程/社会学)、樋口陽一(日本学士院会員/憲法)諸氏も執筆されています。


 備考:この本を読んでいる際、気になって国教とか、政教分離とかを少しだけ調べたのですが、こんなものを見つけました(英語)。
 国際的な信教の自由に関する米委員会というところの調査報告書です。

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