Geçen gün İstanbul'dan gelen bir Japon arkadaşımla buluştuğumuzda Japonya'da
先日、イスタンブルからやって来た日本人の友だちと会ったとき、日本でときどき使われる次の言葉について話しました。「人事を尽くして天命を待つ」。
Biz din hakkında konuşuyorduk. Dinimin ne olduğu sorulursa ''Ben Budistim.'' cevap veriyorum. Arkadaşım de galiba öyle
わたしたちは宗教について話していました。わたしの宗教が何であるかと問われれば「わたしは仏教徒です」と答えます。友だちも、おそらくそう答えているでしょう。けれど、仏教において神の概念はありません。しかしながら、わたしたちの信心においては神の概念があるのだと話しました。これを説明するのは難しいのですが……、どんなふうに説明すれば、良く理解してもらえるでしょうか。。。
Neyse o zaman yukarıdaki söz ortaya çıktı. Bu sözü Japoncada atasözü gibi kullanılır ama gerçeği Çin'nin konfüçyüs
とにかく、そのとき前述の言葉が飛び出したのです。この言葉は、日本語においてことわざのように使われていますが、本当は中国の儒学者・胡寅が書いた『読史管見』という本のなかに見られる言葉です。その意味は、人としてできる限りのことをしたら、後は天命にまかせる、ということ。天命というのが、つまり運命、宿命と言えるでしょう。人の力では変えられないこと……つまり宿命です。わたしたちは仏教徒だけれど、人の力に限界があることを知っています。宿命を受け入れてきたのです、昔から。
Bu arada şunu da arkadaşımdan duydum. Gameboy, Nintendo DS ya da Nintendo Wii'yi üreten Nintendo (任天堂)'yu biliyorsunuz sanırım. Dünyanın en büyük oyun konsolu ve oyun geliştiricisi firmalarından biri. Bu firmanın adı, Ninten-do'nun ''Ninten'' Japoncada ''任天'' diye yazılır. Anlamı ''Kaderi bekler''. Bu düşünce biraz islamiyete benziyor, değil mi?
ところで、これも友だちから聞いた話なのですが……。ゲームボーイやニンテンドーDS、ニンテンドーWiiを製造する任天堂をご存知でしょう。世界で最も大きな家庭用ゲーム機および、同分野におけるパイオニアメーカーのひとつです。このメーカーの名前、任天堂の“任天”とは、日本語で“任天”と書きます。意味は「天命を待つ」。この考え方、ちょっとイスラームに似ていませんか?
Japonlar genelde ''Budist'' der ya da ''Hiçbir şeye inanmıyor'' falan derler, ama ateist değiller bence. Çünkü ateist ''Kaderi beklerim''
日本人って、ふつう「仏教徒です」と言うか、あるいは「何にも信じていません」などと言いますが、無神論者ではありません、わたし的には。だって、無神論者が「天命を待つ」なんて言うでしょうか?
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