2009-04-23

Bir yazar, Kaho Nashiki / 作家・梨木香歩

2009.04.23

 梨木香歩さんの『ぐるりのこと』という本(ISBN-13: 978-4104299041)を読みました。相も変わらず、“トルコ”というキーワードで探してヒットしたから、というのがこの本を手に取った理由。紹介文には、こう書いてありました。「イギリスの断崖に立って思ったこと、トルコの女性に出会った話…。喜びも悲しみも深く自分の内に沈めて、今いる場所から、一歩一歩確かめながら考えていく。静かに、丁寧に、世界と心かよわせるエッセイ」。
Kaho Naşiki'nin ''Gururi no koto / Çevirimdeki şeyler (ISBN-13: 978-4104299041)'' adlı bir kitabını okudum. Her zamanki gibi ''Türkiye''yi anahtar kelime olarak kütüphanede araştırıp buldum, bu kitap okdığımın nedeni bu. Kitabın tanıtımında şöyle yazılmış, ''İngiltere'nin bir uçurumunda ne düşündü? Türk hanımla buluştuğu bir hikaye... neşe ve acıyı derin derin içine koyarak şimdi ayakta kaldığı yerden adım adım düşünerek yürür. Sakince ve dikkatlice bu dünyayı anlamaya çalışarak yazdığı makaleler...''. (Japoncayı iyice çeviremem ki.. ne kadar anlatabildiğim bilmem... özür dilerim)

 トルコのことは、「風の巡る場所」というエッセイとして収められていますが、別にトルコを紹介するつもり書かれたエッセイではなく、彼女がそこで感じたことに重点が置かれています。そのほかの章でも、人と人の“あいだ”ということに焦点が置かれているように感じました。彼女がトルコを旅したのは、ちょうどアメリカがイラク攻撃に入る前のきな臭い時期。そのなかで彼女は、言葉が通じるということのネガティブな側面を語っていました。
Bu kitapta, ''Rüzgarın dolaştığı bir yer'' başlıklı bir bölümde Türkiye hakkında yazılmış. Ama Türkiye'yi tanıtmak için değil, sadece yazar, Kaho Naşiki'nin orada ne hissettiği yazılmış. Başka bölümünde de insan ve insanın arasına odaklaşarak yazıldığını hissettim. Yazarın Türkiyeyi dolaştığı sürede Amelika Irak'yı saldırmak istiyor ve saldırmaya hazırlıyordu. Öyle ortamda o, dilin olumsuz yönünü düşünüyormuştu.

 言葉が通じ、相手の言っていることが分かれば理解も深まる。実際、わたしもそう思っていました。言葉を知るというのは、相手の文化を知ることであり、また相手を理解するための第一歩だと。でも、そこに梨木さんは疑問を呈します。
 言葉が通じることで返って、分かりあえた気になってしまう。あるいは知れば知るほど違いが浮き彫りになって嫌悪感が増す。そういうアンヴィヴァレンツを基軸として人種憎悪の巨大な負のエネルギーが増すばかりではなかったか、と。親和的に共感を育む、ということにおいて、言葉は必ずしも必要ではないのではないか、と。また、こうも書いています。「外国語を学ばねばならない、というプレッシャーはまた、ほとんど強迫観念のように日本人に付きまとうけれども、徹底的に分かりたいと思うのは、征服したいという衝動とほとんど同じなのではないか」。
Eğer karşıdakilerin dilini bilip söylediklerini anlarsak birbirlerimizi daha kolay anlaşabiliriz. Ben öyle düşündüm aslında. Dil bilmek, karşıdakilerin kültürünü ve tarhini bilebilmek ve onları anlayabilmek için bir adım diye. Ama yazar, bu konuda süpheleniyor.
Dil bildikçe karşıdakilerini tam olarak anladığı gibi hissediyoruz bazen. (Hala anlamadığımız çok şey olduğuna rağmen anlar olduğumuzu gibi yanlış anlıyoruz.) Ya da bildikçe farkımızı fark edip karşıdakileri beğenmez oluyoruz. Bilmek ve Anlamak aynı değil. Öyle ambivaransyı temel olarak nefret adlı kocaman olumsuz enerji çoğalıyor aramızıda diyor yazar. Arkadaşça anlayışı yetiştirmek için dil bilmeze de olur diyor. Aynı zamanda şöyle diyor. ''Yabancı dilini öğrenmeliyiz gibi baskıyı hissediyorlar Japonlar, fakat tam olarak anlamayı istemek fethetmek ile az daha aynı anlama mı gelebilir???''.

 これらは1冊の本の、ある一部分だけ、を抜き出したものなので、その“部分”だけを見て彼女が書きたかったことを判断することはできません。でも、トルコ語を習う一人として、自分を省みる機会をくれました。
Bunlar, bir kitabın sadece bir kısımıdır. Bu yüzden sadece kısım kısım okuyarak yazarın ne yazmak istediğini, ne iletmek istediğini tahmin etmek mümkün değil. Ama Türkçe öğrenen biri olarak kendimi hatalı bulmak için çok etkileyiciydi.

 「どうしてトルコ語を学ぼうと思ったの?」とは、よく聞かれる質問です。トルコと、トルコ人が好きになったから。もっともっと理解したいと思ったから。でも、その先に“知った気になる”“分かった気になる”という罠にはまる恐れは確かにあります。言葉が100%理解できたからと言って、相手を100%理解できるわけではない。日本語を喋る日本人の気持ちや思いを100%理解できないのと同じように、言葉が分かったからと言って、トルコやトルコ人を理解できたことにはならない。分かれば分かるほど、相手の良いところも見えてくれば、悪いところだってどんどん見えてくるわけで。それが嫌悪感につながらないとも言い切れない。
 徹底的に分かりたいという思い=征服したいという衝動、には賛同できないけれど、言葉を理解した=相手を理解したという誤解には陥る可能性があるな、と。
''Niye Türkçe öğrenmek istiyorsun?'' Bu en çok dinlediğim bir sor Türklerden. Ben şöyle cevap veriyorum. Türkiye'yi ve Türkleri çok sever oldum, daha çok sizleri anlamak istediğim için. Ama gelecekte onları tam olarak bildiğim gibi, anladığım gibi davranmam ihtimal var. Dili yüzde yüz anlarsak karşıdaki kişiyi yüzde yüz anlayamaz. Yani yüzde yüz anlamak mümkün değil ki. Japoncayı konuşan bir Japonun duygusunu ya da düşüncesini yüzde yüz anlayamadığım gibi dili bilersek bile Türkiye'yi ya da Türkleri anladım diye diyemem, değil mi? Onları bildikçe hem iyisi hem kötüsü de görebilirim. Kötüsü gördükçe de Türkiye mükemmel bir ülke diyebilir miyim acaba...??? (evet, bu dünyada mükemmel olan hiçbir şey yok ki...)
Tam olarak anlamayı istemek, fethetmek ile aynı diye düşünmüyorum. Bu fikrine katılmıyorum. Ama yıkarıda yazdığım gibi hata yapabilirim gelecekte.

 また、別の章ではこんなことが書かれていました。「甘やかな連帯は、そういう、そこはかとないとろこで止めておくのが健やかさを保つ鍵である。その快感への渇望が暴走すると、異分子を排除しようと痙攣を繰り返す異様に排他的な民族意識へと簡単に繋がる」。

 この一文は、世界各地における民族紛争や、宗教的対立、もっと近いところで言えば学校でのいじめとか、職場でのパワハラ、を連想させます。“群れ”の基準が何であれ、確かに“群れ”は一種の安心感を生むし、自分の力以上のことができてしまうような幻想をも生み出します。でも、それ自体が“悪”なのではない。ただ万能ではない。“群れ”から外れた者を疎外し、悪者呼ばわりすることで、自分が“群れ”の側にいるのだと安心するのも、やっぱり違う気がするし。

 わたしたちは個であり、集団でもあります。わたしのパスポートには「国籍 日本」と書かれているし、トルコで出会った人たちが、わたしを見て“これが日本人なんだ”と感じることもあるでしょう。だからこそ「日本人って嫌なヤツだな」と思われないようにしないと、という思いもどこかであります。一方で、そんな大きな集団を代表することなんてできない、わたしは個人であって、日本代表じゃないんだから、とも思う。

 んー、なんだか今日は難しい話になってしまった。梨木さんの『ぐるりのこと』は、本当にいろんなことを考えさせてくれる本です。これに影響されて、前に読んだことのある梨木さんの小説『村田エフェンディ滞土録(ISBN-13: 978-4048735131)』を再び読んでみると、前よりもずっとずっといろんなことが見えて来た気がしました。映画『恋人たちの距離(ディスタンス)』のなかで、「神様がいるとしたら、それは人のなかにいるんじゃない。人と人のあいだにいるのよ」って言葉があったけれど、本当に大切なことって、もしかしたら人と人の“あいだ”にあるのかもしれないなー、なんて、わたしの思索はあちこちに飛び跳ねていくのです。

Japonca olarak yazdığım herşey Türkçeye çeviremiyorum Türkçem zayıf olduğu için. Kusura bakamayın...

Bu arada bu kitap okudukutan sonra yazarın başka kitabını da okumak isteyip okudum. Kitabın adı, ''Murata efendi Taito-roku / Murata efendi'nin Türkiye'deki günlüğü''dür. Eskiden okuduğumdan daha iyice anlayabildim ne yazdığını. Ve ''Gün Doğmadan'' adlı filmdeki bir cümle aklıma geldi. ''Eğer tanrı var olursa o, insanın arasında galiba''. Evet gerçekten önemli bir şey sanki insanların arasında var olabilir. Öyle düşüncem oraya buraya hoplıyor şimdi de...

6 comments:

  1. こんにちは。
    面白そうな本の紹介ありがとうございます。
    近々手に入れて読むつもりです。
    関西日本トルコ協会でもトルコ関連の書籍を集めておられるそうなので、是非是非紹介してあげてください。

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  2. アイシェさん、こんにちは。
    読んでくださっている、と思うと、とても緊張します・汗);

    梨木香歩さんの『ぐるりのこと』『村田エフェンディ滞土録』ともに、いろいろ勉強になる本でした。

    関西日本トルコ協会では、どんな本があるんでしょう?
    最近、大阪の事務所に行ってないので……。
    もしかして、日曜日のおしゃべりに行っておられるのですか?

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  3. 緊張なんてしないでくださいよー。
    いつもfreebirdさんのトルコ語を感心しながら読ませてもらってるんですから・・・。
    日曜のおしゃべり会なども全く顔を出さず、勉強もせず、私のトルコ語はひどいことになってます(>_<)

    ↑のanlasmakですが・・・言葉が中途半端に通じるのは誤解のもとだと最近つくづく感じます。言葉をよく知らない同士なら、相手を何とか理解しようと心の距離が縮まるのだけれど、お互い半端なトルコ語半端な日本語での会話に馴れ合ってしまうと、相手が発した言葉だけで理解しようとしてつまらない喧嘩をしてしまったりする。「初心に戻る」このことを肝に銘じて6月トルコに行きます!

    freebirdさんも5月にまた行かれるんですね。今度もアンカラですか?

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  4. アイシェさん

    こんにちは。確かに、おっしゃるとおり、中途半端っていうのは誤解のもとかもしれませんね。
    ぜひぜひ、6月のトルコ旅行で、もう一度“トルコ語熱”に火を付けてください。

    はい、わたしは今回もアンカラです。イスタンブルとイズミルと、随分迷いましたが、結局……。
    アイシェさんは、今回どちらですか?

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  5. えーっと・・・実はまだ予定立ってません。
    実は先日まで、トルコからクロアチア・ボスニア方面への格安ツアーに参加しよう!とトルコの友人と息巻いていたのですが、私の日程に合うのが見つからず、ちょっとしぼんでます。フリーで行くことも考えたんですが割高なので、またの機会になりそうです。
    なので別方面の海外ツアーを探すか国内に留まるか、これから考えます。

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  6. クロアチア・ボスニア方面、良いですねー。
    わたしも、トルコにいるあいだにボスニアには行ってみたいと思っているのですが……。

    まずは勉強優先で。

    また、決まったら教えてくださいね。
    会えそうなら、トルコでもお会いしたいです。

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