2007-10-23
失われたいのち
2007.10.23 PM5:30
ここのとこ日本でもトルコ関連のニュースを連日報道しているらしく、友人から「大丈夫か〜?」というメールが来てました。ふだんは電話などして来ない両親も、わざわざ旅先から電話してきたりして。
日本でどのように報道されているのか分かりませんが、ここアンカラでの生活はいたってフツーです。ラマザン後のシェケル・バイラム前にPKKとの紛争地域でトルコ軍兵士が襲撃されたり、紛争中に亡くなったりして、トルコじゅうで殉死者の家族を支援する募金などが行なわれ、PKKに対する抗議行動も各地で起こっていましたが、日常的な生活に大きな変化があったようには感じませんでした。そして、ここまではトルコ人たちの反応を微笑ましく眺めていたのです(トルコ政府は北イラクに侵入してPKKとの争いに終止符を打つのだ……的に、だんだんきな臭くなっていったのですが)。
ところが、今週の日曜日に再びイラク国境に近いハッカリという村でPKKに襲撃された兵士12人が死亡。休日の昼過ぎからテレビはこの話題で持ち切りでした。そんなニュースを受けて月曜日にはわたしがいま住んでいるAnkaraのkavaklideleという場所でもトルコ国旗を掲げ、PKKへの抗議を叫ぶ大車列がやってきたのです。昼間には何十台にも及ぶ救急車による抗議行動もあったのですが、すごい数のサイレンを聞いた時は「大事故か? それともどこか爆破されたか?」と心配しました。そして、きのうも再び抗議行動の大車列(上の写真は、その様子です)。周辺のビルからはトルコ国旗を振ってこの抗議行動に応える人たちんも多数。きょうも10数人で抗議を叫びながら歩く人たちを見ました。ニュースでもずーっと報道されています。
さて、殉死者に哀悼を示すのは当然です。トルコ人でないわたしだってニュースを見ながら悲しい気持ちでいっぱいです。亡くなった若い兵士たちの写真を見ると何とも言えない気持ちになります。もちろんPKKのテロ行為にも反対です。でもね。。。通りを埋め尽くしている車の車列を見て思ったのです。なんかお祭りみたいだと。不謹慎な言い方で申し訳ないけど、そんなふうに見えたのです。自動車に箱乗り、抗議を叫び、ときに唱和しながら、音楽やクラクションを流しながらゆっくりと通り過ぎていく車列。でもね、よーく見るとみんないい車に乗っているんですよね。「わたしたちはみな殉死者だ、わたしたちはみな兵士だ」というスローガン(心は彼らとともに……という意味)もあるのですが、そのスローガンを叫んでいる若者たちと、実際いま奮闘地域で戦っている若者たちのあいだには大きな隔たりがあるように思えてならないのです。
そして、抗議行動の次に彼らがいったい何を求めているのか、疑問に思うのです。PKKの襲撃によって若い命が失われた。嘆くのは当然のことです。彼らの家族の姿は見ていて痛々しいです。たとえ兵士として紛争地域に送られたと知っていっても、誰がその死を覚悟できるでしょうか。少しでも可能性があるなら、どうか無事で帰ってきてほしいと願うでしょう。当たり前です。
でもね、ただ抗議するだけでは、嘆くだけでは問題は解決できないのです。今後、北イラクに侵入してさらなる大規模な対PKK作戦が実施されれば殉死者の数はさらに増えていくでしょう、確実に。そのたびに嘆き、PKKに抗議を繰り返しても、失われた命は戻らないし、問題も解決しない。ならば、どうすることがトルコにとって良いのか、政府に求めていくこと、世論を形成していくことだって大切じゃないのでしょうか。トルコにとってPKKが敵だとすれば、PKKにとってトルコは敵。誰が敵の抗議に耳を傾けるでしょう。だとしたら、この抗議はいったい誰に向けられたものなのでしょう? トルコのために、そしてこれ以上殉死者を出さないためにトルコがどうあるべきなのか、何をすべきで、何をすべきでないのか、感情的になる前にじっくりと考えてみたいと思うのです。
きのうの抗議集会に参加していたアンカラの男性が、テレビのインタビューでこう言ってました。「わたしも兵役に就きました。要請があれば再び戦地に赴きます。子どもたちを置いて兵役につきます」← あなたがいま負うべき責任は兵役に就くことではなく、子どもたちの父親としての責務を果たすことなのでは? それだってトルコという国のために重要なことだと思いますけど。
きょう、学校から帰って来てテレビを付けたら、親に軍服を着せられ、胸にトルコ国旗のワッペンを付けた4〜5歳の子どもがテレビに出てました。マイクを向けると「アスケレ・ギデジェイム(兵役に就きます)」と舌足らずに言ってました。最後に、メッセージはある? とマイクを向けられると、カメラに向かって敬礼してました。なんだか、すごーく悲しい気持ちになりました。
果たして、、、現在の世界で武力によって解決できる問題はあるのでしょうか。
わたしは、いまでもトルコが大好きだし、トルコ人たちが大好きです。感情的な一面もあるけれど、それは彼らの熱さ、篤さによるものだと思うし。とにかく、これ以上命が失われないことを願っています。テロによっても、紛争によっても。
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment